対馬の自然と文化拠点半井桃水館
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半井桃水について

万延元年(1860)、長崎県対馬の府中(現対馬市厳原町)に生まれる。 藩主・宗(そう)家の典医の家の長男で、幼名泉太郎のちに冽(きよし、れつ)と名乗る。  少年時代を釜山倭館で過ごし、上京して共立学舎に入学。再渡韓後、朝鮮から京城事件などの記事を送信し、帰国後、東京朝日新聞に入社。小説家・記者として活躍し、日露戦争にも記者として従軍。晩年は邦楽三昧の日々を送る。樋口一葉の師であり、思慕の対象であった人物。
大正15年11月21日(1926年)歿 65歳。墓所は東京都文京区本駒込・養昌寺。観清院謡光冽音居士

半井家は和気清麿の後裔といわれ。対馬国厳原藩の典医で、代々宗家に仕え俸禄八十石である。祖父文中、父湛四郎(たんしろう)は釜山府の倭館勤務のためしばしば渡韓した。泉太郎(桃水の幼名)も明治五年(1872年)13才で朝鮮に渡り給仕として働く(成績優秀だった桃水は、選抜されて、今で言うところの「語学留学」もかねていたことが近年わかってきています)。その後 泉太郎は明治8年(1875年)上京し、尺振八(せき しんぱち)の英語学塾共学舎(明治3年創設)に学ぶが、学費なきため学僕として住み込む。時に16才であった。共学舎時代の泉太郎は戯作や新聞に興味をもち、尺振八の許可を得て、「東京日日新聞」、「平仮名絵入新聞」、「読売新聞」等に投書寄稿し次第に名が出るようになった。彼の文章は戯作文調に英語・漢文調の入った文明開化風のものであった。
明治10年(1877年)18才の泉太郎は共学舎を出て三菱に入社。然し、すぐに辞表を出した。


나카라이 도스이(1861.1.12 ~1926.11.21) 나카라이 도스이는 메이지, 다이쇼 시대에 걸쳐 활약한 대표적인 대중소설가이다. 나가사키 현 쓰시마 시 이즈하라마치에서 출생했고 이름은 레쓰(洌), 아명은 센타로(泉太郎)이다.나카라이 가문은 쓰시만 번에 소속되어 있었고 대대로 의사로 종사해왔다.감수성이 풍부했던 나카라이는 아버지가 근무하던 부산에서 소년기를 보낸 후, 일본으로 돌아와 도쿄 영문학학원에서 공부했다.1881년에는 아사히 신문 기자의 신분으로 한국에 건너가, 그 다음 해에는 한국의 고전 「춘향전」을 세계 최초로 번역하여 아사히 신문에 연재했다.1889년부터 본격적으로 소설을 신문에 연재하기 시작했고, 연간 500회 이상을 게재한 해도 있다.히구치 이치요가 소설 창작 지도를 받기 위해 도스이를 찾은 것은 1891년이며, 같은 해 도스이의 대표작인「조선에 부는 모래바람(胡砂吹く風)」이 신문에 연재되었다.1983년「조선에 부는 모래바람」을 단행본으로 발간한 서적에는 이치요의 서가(序歌)가 머리말에 올려져 있다.1904년에는 종군기자로 러일전쟁에 참전했고, 전 후에는 나카라이 후반의 대표작 「덴구회람(天狗廻状)」을 신문에 연재했다. 1919년 퇴직 후에는 속요의 일종인 나가우타와 우타자와에 심취해 작사한 작품도 많이 남아있다.1926년에는 후쿠이 현 쓰루가 시에서 요양생활을 했고, 집필 중 쓰러져 쓰루가 시의 한 병원에서 사망했다. (향년 66세) 도쿄 고마고메에 위치한 요쇼지 절에 묘가 있다.



明治11年(1878)
京都
「西京新聞」(明治10年創刊)に入社、論文・雑報等の記者活動を始める。明治13年(1880)大阪の「魁新聞」(さきがけしんぶん)(明治13年8月創刊)に移ったが、翌14年にはこの「魁新聞」も経営困難となり廃刊の憂き目にあい、失職する。

明治14年(1881)
朝鮮
成瀬モト子と結婚
亀浦事件に関わる

征韓論がもりあがりつつあった日本において、それを心配した文章が残っています。欧州やアメリカにしか文化の窓が開かれなくなったことを心配した桃水の仕事は対馬人でしか出来なかったことでしょう。
22才の桃水は「朝日新聞」の通信員として朝鮮に渡る(日本で最初の海外特派員)。明治15年には、朝鮮紹介をかねた翻訳小説の鶏林情話「春香伝」を「朝日新聞」に20回にわたり連載する。彼の最初の続き物であった。翌16年、釜山で、同じ対馬厳原藩の成瀬モト子と結婚。然し、もと子は肺病のため翌17年に死亡する。
明治21年(1888)
東京
29才の桃水は長い朝鮮生活から帰京し、「東京朝日」に入社した。郷里より弟の浩、茂太、妹の幸を引き取って、芝南佐久間町の「恵智十」という寄席の裏に住む。また、女中も置いていた。ここには福井県敦賀の写真屋の娘・鶴田たみ子(幸の同級生)、二人の弟子も同居した。
この頃より小説家としての本格的活動が活発になる。たとえば「唖聾子」、「くされ縁」、「小町坂」、「海王丸」、(以上明治22年)、「業平竹」、(23年)などが次々に東京朝日に連載された。
明治24年(1891)4月15日
対馬
一葉が初めて訪ねて行き桃水にあったのもこの芝南佐久間町の家である。「座敷の数4つばかりあり、書斎なるべし、畳の間に文机置きてそが上に原稿紙筆硯など次第なく置かれたり。」と、一葉は桃水の様子を記して」いる。 長編「こさ吹く風」を執筆代表作となる。
明治25年(1892)
東京本郷
3月に桃水は本郷にし片町に移った。3月27日、一葉は西片町に桃水を訪ね、桃水の雑誌「武蔵野」創刊号を貰う。(これには、一葉の小説「闇桜」が掲載されている。「武蔵野」は3号で廃刊となる)
同年5月にはカンダ三崎町に移って「松濤軒」という葉茶屋を開いた。然しこれも思うようにいかず、まもなく店を閉じ、飯田町4丁目21番に移った。この年は10編近い小説を発表し、その後も年に5~6編の小説を発表している。
明治37年(1904)
日露戦争従軍
朝日新聞より従軍記者として第三軍に従軍する。時に桃水は45歳の中老期であった。日露戦争から帰った桃水は、明治40年(1907)に、元対馬藩の大浦繁太郎の長女・若枝を後妻に迎えた。その後明治44年(1911)に長女松子誕生。然しこの一人子の松子は大正12年(1923)に死亡した。
大正元年(1912)10月
東京牛込区
牛込区若宮町37番地に移った。桃水は日露戦争のころから長唄の作詞に興味を持ち、「鳥羽の恋塚」をはじめとし、20編近くを作詞したという。妻の若枝は歌沢寅右衛門の門下で寅千代と言い、後に小唄に転じて、春日豊千代と名のった。
大正15年(1926)11月21日
死亡
大正8年(1919)朝日新聞を退き、その後は客員として小説を発表した。晩年は脳溢血気味で、福井の鶴田写真館で静養していたが、執筆中に倒れ、大正15年(1926)11月21日に死亡。65才11ヶ月であった。
墓は駒込の養昌寺(曹洞宗)の「半井家代々の墓」に合葬されている。桃水の戒名は、観世院謡光列洌音居士。
高橋 和彦 著「一葉と桃水」(黄色表紙版)より抜粋
*とうすいの新聞連載小説は、国立国会図書館の電子データーとして、閲覧できるものもあります。
*赤字の部分は参照資料としてNPO対馬郷宿会員が添付しました。